2010年1月21日木曜日

気遣いと気疲れ

久しぶりに宋文洲さんのメールマガジンを読みました。「気遣いにも長短があり」というタイトルのものです。
「日本に長くいましたが、振り返るとホームパーティーの少なさに驚きです。(中略)日本人は家に他人を呼ぶと大変気を遣うからです。(中略)結局ホームパーティーはお互いに疲れるだけなのでやる人がいなくなります。」
これは思い当たる節があります。まだ独身の頃、会社で仲の良い人々が集まってホームパーティーをやる話があり、私も喜んで参加しました。余り人に気を遣わない(と言うより気を遣うと疲れるので好きではない)性格の為、何も考えず友人宅を訪れました。気が付くと周りの皆はワインとか手土産を持参していて、持っていないのは私だけでした。そして帰り際に違う友人から「なぜ手土産一つも持って来ない」と冷たく言われたのを覚えています。また、これは最近の話ですが、近所でバーベキューを2度やりました。近所付き合いもあり、皆一様に気を遣っているのがわかる、楽しいですがとても疲れるホームパーティーでした。ともかく気遣いも行き過ぎると、もうやりたくないという気持ちが強くなってしまいます。
「私は過剰な気遣いが過剰サービスに繋がり、店舗過剰、ストレス過剰を招いているのではないかと思うのです。さらにいうと、これが日本の高コスト体質の遠因であると推測するのです。(中略)しかし、少数の人の、わずかな便利と気持ち良さのために多数の人が大きな精神的代価と金銭的コストを払っています。このことに気付いたうえでもう一度その必要性について問いかけていただきたいと思います。」
先日家に帰り食事を取っていると、妻が1枚のビラを見せてきました。少し小さめのビラは、近所の安売り店が平日24時まで営業する、という内容でした。見た瞬間に「そこまでしなくても」と呟くと、「私もそう思った」と妻も同意しました。
年末の暮れが押し迫った頃、髪を切りに行った時です。「髪結いなんかで正月も営業ですか?」と聞くと、以外にも「最近はそう言ったお客も少なくなって、正月はお休みです」との答えが返って来ました。「最近は正月でも店をやっている事が多くて、過剰サービスですね」と言うと「確かに。だからかも知れませんね、正月という気がしないのは」と言われました。そう言えば、昔は年末にお金を下ろし損ねると、正月は文無しで過ごす羽目になりました。今では銀行のATMですら正月も営業しています。

私も昔は「あそこの店は無愛想だから二度と行きたくない」と公言して憚らない事により、過剰サービスを強いていたのかも知れません。
この記事を読んだからではありませんが、ここ数年、ホントに必要なの?このサービス、と思う事が多くなりました。皆そこまでサービスして欲しいわけでも無いのに、企業が生き残りをかけた差別化の悪影響でしょうか。
会社のエレベーターでは最初に入った人がきちんと開くボタンを押しますが、デパート等見知らぬ人が集う場所では開くボタンを必ずしも押さなくなります。自分に無理無く気配りが出来るのがスマートなんでしょうが、日本全体が過剰サービスと言う高コスト体質になっています。そして、そのツケが気疲れ、ストレス、巣篭もりにつながっていきます。
今日からはレジのおばちゃんが無愛想でも「夫婦喧嘩でもしたかな」と気にしないようにします。